高島武彦 の 東京23区入門

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千代田区

千代田区(ちよだく)は、東京都の区部中心部に位置する特別区。国会議事堂、内閣総理大臣官邸、最高裁判所をはじめとする主要政府機関、また日本を代表する大企業の本社が数多く置かれる。

東京23区のほぼ中央に位置する。旧麹町区と旧神田区の合併により誕生した。港区・中央区とともに「都心3区」と呼ばれる。 区の中央に皇居があり、区全体の約15%を皇居の緑地が占める。区域は江戸城の外濠の内側部分とほぼ一致しており、外郭を含めた城址にあたる場所である。永田町や霞が関を中心にさまざまな首都機能が集積し、日本の政治・行政・司法の中心地である。また、日本屈指のオフィス街である丸の内や大手町は東京の中心業務地区(CBD)の1つとして機能しており、3大メガバンクの本店や主要な大企業の本社が多数集積し、日本の金融・経済の中核を担っている。区の東側には東京駅が位置し、日本の中央駅として多数の新幹線・在来線の起点となっている。皇居西側を中心とした旧麹町区の番町地区は都心屈指の高級住宅街として知られている。

西部は武蔵野台地の東端にあたる麹町台や駿河台といった台地で、東部は沖積平野である。北部に神田川が東に向かって流れ、日本橋川が三崎橋付近から分かれて流れている。

千代田区は、現在の皇居に江戸城が置かれ徳川幕府の本拠地として政治の中心になり、明治維新後も新政府が大名屋敷跡に官庁街を開設して首都機能を置いて「東京」の中心地としており、日本の政治の中心が引き続き置かれることになった[3]。古来より荒川や利根川(現在の古利根川下流隅田川がかつての水路)、多摩川の河口部に近く、日比谷入江があったことから、海と川を利用した水運の根拠地となり、関東地方における流通の中心地としての機能を果たしていたといわれている「江戸湊」も当地区にあった[3]。

江戸時代には、掘割沿いに河岸と呼ばれる流通基地が整備され、現在の中央通りにあたる「通町筋」には「伊勢屋」の屋号を名乗る伊勢商人などの上方の商業資本が多く進出しており、問屋機能の集積が進んだ[3]。

神田地区は、江戸時代から幕府御用の儒学者が集まった昌平校があり、民間の学者も多く住んで私塾が多数あった学問の盛んな地であったが、近代以降も私立大学や予備校などが多数立地する文教地区となっており、御茶ノ水界隈は日本最大の学生街となっている[3]。こうした伝統の影響もあり、神田の一角にある神保町には世界最大級の古書店街である神田古書店街が形成され、出版社も多く立地している[3]。

江戸時代の神田川の付け替えで分離され、江戸城の川を挟む形となった神田の北部は外神田と呼ばれるようになった。江戸時代に火災の延焼を防ぐため、約9,000坪の広場が作られて遠江秋葉神社が勧請されたことから、この地区は秋葉原と呼ばれるようになり、第二次世界大戦に露店商が集積し、そこから電気部品を扱う店舗が集まる「秋葉原電気街」が発達した。現在、秋葉原は電気街としての側面も持ちつつ、世界的に有名な「オタクの街」「サブカルチャーの街」として発展し、世界中から多くの観光客を呼び寄せている。

明治以降、国会・首相官邸・中央省庁・最高裁判所などの三権をはじめとする日本の首都機能、主要政党の本部など国家権力の中枢が千代田区に集中し、日本の立法・行政・司法の中心である。区内の永田町、霞が関といった地名は国会議員や官僚の代名詞である。

1891年に丸の内が三菱に払い下げられて、政府機関などに隣接することからオフィス街が建設された。政府との間での人脈構築や情報の収集しやすさから当地区に大手企業の本社が多数立地するようになり、経済面でも中心的な機能を果たすようになった。このため丸の内には三菱グループの各社の本社が多数集積しており、その歴史的経緯から丸の内は「三菱村」とも呼ばれる(グループの御三家と呼ばれる三菱UFJ銀行三菱商事三菱重工業の本社は全て丸の内に位置している)。その結果、丸の内や大手町、日比谷は3大メガバンク都市銀行)の本店や全国紙の新聞社をはじめ、大手製造業や大手総合商社などの巨大企業の本社機能が集積しているほか、経団連や農協などの経済団体の本部も集結している。